LOGIN賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。
入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。
玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。
「趣味が悪いですね」
隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。
「賭場で善趣味求めんな」
「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」
「お前がそれ言うか?」
「俺はまだ何も賭けてませんよ」
周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。
今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。
「新しい倉庫使用料は18%上げる」
シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草を灰皿へ置き、手元の2枚を一瞥してから、提示された額へ同額を重ねた。
「8%だ」
「燃料費も保険料も上がっている」
「だから8%は飲むと言ってる」
「相変わらず値切るな、絹笠」
「相変わらず吹っ掛けるからだろ」
玲は凌臣の右側へ座り、卓へ肘をつかず静かに勝負を見ていた。カードの種類はホールデムを基礎にした独自ルールで、共有札5枚に加え、最終局面で双方が1枚だけ交換権を持つ。運だけでなく、確率と相手の判断癖が露骨に出る形式だった。玲は開始からすべての配札、公開札、シュタイナーがカードへ触れる時間、ベット額を頭の中へ残している。
交渉が進むにつれ、倉庫使用料は11%まで下がった。凌臣があと1%を削ろうとしたところで、シュタイナーが手を上げ、ディーラーを止める。
「小さな金で刻むのに飽きた」
「お前が始めたんだろ」
「だから大きくしよう。次の1ゲームで条件を決める」
凌臣の目が細くなった。
「何を載せる」
シュタイナーは背後の秘書へ指を鳴らした。運ばれてきたケースから出されたのは、ある海運会社の優先株式と、シンガポール港の長期倉庫利用権だった。評価額を合わせれば約300億円。対して燈城会側には同等額の物流会社持分を求めるという。
「勝った方が取る。さらに倉庫使用料も、私が勝てば18%、お前が勝てば8%で固定する」
卓の周囲の空気が僅かに変わった。これまでの勝負とは桁が違う。警備員ですら顔には出さないものの、視線が権利証へ集まった。
凌臣はすぐには返事をしなかった。損得を恐れているというより、勝負条件に仕掛けがないか考えている顔だった。玲はそれを見ながら、シュタイナー側のディーラーが過去30分で行ったシャッフルと配札の癖を思い返す。現時点で露骨な不正はない。カードの縁にもマーキングは見えず、卓下から信号が送られている形跡もなかった。
凌臣が不意に玲を見る。
「やるか?」
玲は一瞬、自分以外の誰かへ聞いたのかと思った。
「俺が?」
「お前、カード得意だろ」
「得意ですけど、それと会社の持分300億円分を俺に投げるのは別問題でしょう」
「負けると思ってんのか」
玲はシュタイナーへ目を向けた。相手は面白そうに笑っている。挑発ではなく、玲がどう答えるか観察している顔だった。ここまで12ゲーム、シュタイナーは大きく勝負する時ほど左親指で薬指の指輪を触る癖がある。一方、完全なブラフでは指輪へ触れず、代わりにカードの角を2回だけ撫でる。本人は気づいていないだろう。
玲が席へ移るまでの数10秒、凌臣は権利証の真正性を確認するため、信託会社の承認番号と担保設定を端末で照合した。金額が大きいから慎重なのではなく、負けた後に相手が支払いを拒む余地を残さないためだ。玲はその横でシュタイナーの表情を見ていた。300億円という数字を口にした時より、凌臣が承認番号を確認した時の方が相手の瞬きは僅かに増えている。賭けそのものを楽しんでいる一方で、物流権益を本当に失う可能性までは軽く見ていないらしい。
「念のため聞きますけど、俺が負けたら本当に渡すんですね」
玲が凌臣へ小声で確認すると、凌臣は端末から顔を上げなかった。
「賭けたもんは渡す」
「俺を責めません?」
「負け方による」
「嫌な答えだな」
「勝ちゃいいだろ」
その無茶な信頼を向けられると、玲はかえって冷静になった。凌臣は300億円を軽く見ているわけではない。金額の重さを知ったうえで、それでも玲が座る方が勝つ確率が高いと判断している。その事実だけを受け取り、玲は改めて盤面へ視線を落とした。
玲は椅子を引いた。
「分かりました。負けても俺の給料から引かないでくださいよ」
「300億返せる給料払ってねぇ」
「だったら最初から言わないでください」
凌臣が低く笑い、席を譲った。玲が座ると、向かいのシュタイナーは露骨に肩を揺らした。
「本当にこの男へ任せるのか、絹笠」
「俺が決めた」
「300億だぞ」
玲は卓上の権利証へ指先を置いた。金額表示を確認した目にも、呼吸にも変化はない。
「それが何か?」
シュタイナーの笑みが少しだけ薄くなった。
ディーラーが新しいデッキを開封し、封印を切る。玲はその手元を静かに見ながら、カードが混ざる順序まで可能な限り追った。最初の2枚が配られる。玲は5と7の同スート。強い手ではないが、共有札次第では十分に戦える。シュタイナーはカードを見るまで1.2秒、見たあと0.6秒だけ指を止めた。
フロップが開く。6、8、キング。玲にはストレートの可能性が生まれた。シュタイナーが小さくベットし、玲はコールする。ターンは2。状況はほぼ変わらない。
「慎重だな」
シュタイナーが言った。
「300億なので」
玲が平然と返すと、男は笑った。
「さっきはそれが何かと言っただろう」
「相手がどう受け取るか見たかっただけです」
玲は視線をカードから上げない。相手の呼吸がほんの少し深くなった。リバーで9が出る。玲の手は5から9のストレートへ完成した。
シュタイナーは長く盤面を見たあと、約70億円相当を追加で載せた。左親指は指輪へ触れていない。代わりにカードの角へ1回、2回。玲はそれを見て、相手の手がキング1組程度か、それ以下だと推測した。
「全部」
玲は残りの権利証を押し出した。
シュタイナーの目が細くなる。玲の顔から何かを読もうとしているのが分かったが、4年間、凌臣の隣で何をされても表情を崩さず生きてきた男から情報を拾うのは難しい。やがてシュタイナーはコールした。
カードが開く。
玲のストレートに対し、相手はキングと8の2ペアだった。
ディーラーが勝者を宣言すると、卓の周囲で僅かなどよめきが起きた。玲は権利証を引き寄せるでもなく、カードを伏せる。300億円の価値が動いた直後とは思えないほど淡々としていた。
勝敗が確定した瞬間にも、玲はディーラーの指先から目を離さなかった。カードを回収する順番、使用済みデッキをケースへ戻す位置、監視役がイヤホンへ触れた回数まで頭へ入れる。大金を勝ったことで注意を緩めれば、その次に狙われる。玲にとって賭場は金を増やす場所というより、全員が自分の欲と恐怖を隠そうとする観察室に近かった。
シュタイナーは数秒黙ったあと、突然笑い出した。
「面白い。もう1度だ」
凌臣が眉を上げる。
「条件は決まっただろ」
「条件は決まった。これは別だ」
シュタイナーは秘書へ指示し、さらに別の権利証を持ってこさせた。今度は海運会社株式、債権、貨物船2隻の所有権を束ね、先ほどのおよそ2倍になる評価額を載せる。
「600億。どうだ」
玲は金額表を1度見た。
「やります」
凌臣が横から玲を見る。
「即答かよ」
「さっきと条件が同じなら、断る理由あります?」
「あるだろ、普通」
「どこに?」
玲は本気で分からない顔をしていた。
2戦目は、最初より長引いた。シュタイナーも玲が単なる運任せではないと理解し、ベット幅を細かく変え、途中で意図的に癖を消そうとする。だが、癖を消そうと意識した行動そのものが新しい癖になる。玲は相手がカードを見る時間、唇の動き、椅子へかかる体重、右肩が上がる頻度まで拾い続けた。
最終局面、玲の手はフルハウス。シュタイナーもかなり強い手を持っていたが、最後の交換権を使うタイミングが0.8秒早かった。その僅かな違いで、玲は相手が完成形ではなく改善を求めたと読む。ベットを重ね、最後まで降りなかった。
結果は玲の勝ちだった。
600億円相当の権利が燈城会側へ移ることが確定し、シュタイナーは今度こそ深く椅子へ凭れた。怒ってはいない。むしろ珍しい生き物を見つけたように玲を眺めている。
「君は金が怖くないのか」
「金だから怖くないんです」
「では、何が怖い」
玲は答えなかった。計算できないもの、と口にしかけてやめる。それをここで他人へ教える理由はない。
玲は勝負の合間にも、賭場そのものを忘れてはいなかった。壁際に並ぶ監視役の立ち位置は1時間ごとに変わり、権利証を運ぶ係だけは同じ人物が担当している。金額が大きくなるほど警備が厚くなるのではなく、所有権移転に関わる人物だけが固定される仕組みらしい。賭けへ集中しているように見せながら、その運用まで頭へ入れておくのが玲の癖だった。
帰りの車へ乗り込む頃には、日付が変わっていた。凌臣は後部座席へ座るなりネクタイを緩め、玲を横から眺める。約900億円相当を勝ち越した本人は、窓の外の街灯を見ながら、学生から提出されたレポートでも思い出しているような顔をしていた。
「怖くねぇのか」
玲が振り向く。
「300億で?」
「普通は怖ぇよ」
「600億でも同じです」
「そういう問題じゃねぇ」
「計算できるなら金額は関係ないです。勝率と損失期待値と、負けた場合にこちらが許容できる範囲を見ればいいでしょう。ゼロが増えたからって、確率まで変わるわけじゃない」
凌臣はしばらく黙っていた。やがて呆れたように煙草を取り出し、火をつける。
「お前の普通、たまに本気で気色悪いな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねぇ」
玲は小さく笑った。その横顔には、900億円を動かした興奮も恐怖も見えない。凌臣が何気なく手元の権利証ケースへ視線を落とすと、玲は既にそれすら見ていなかった。
ただ、車が本邸へ向かって走り出した数分後、玲は何かを思い出したように凌臣へ顔を向けた。
「そういえば、シュタイナーのディーラー、途中から俺の手元しか見てませんでしたよ」
「何が言いてぇ」
「たぶん次は、俺の癖を探してきます」
凌臣の口元がゆっくり吊り上がる。
「癖、あんのか?」
玲は窓へ映る自分の顔を見ながら、灰紫の目を僅かに細めた。
「さあ。向こうが見つけられたら教えてもらいましょうか」
その声には、金額を前にした時には1度も現れなかった、僅かな楽しさが混じっていた。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め